11、重い男

深刻な話で申し訳ないのだが、人生において泥沼にはまるとなかなか抜け出せない。
こんな暗いこと書きたくないのだが、今回はこのエッセイ集の中で画期にしたく、重い筆を取ろうと思う。

私は現在、精神障害2級の基礎年金受給者で障害者向けの就労継続支援A型事業所という所で働いている。と大いに引かせたところで追い討ちをかけるが、仕事中にパニック発作に襲われ早退することもしばしばである。

これで年金を貰っているのだからキチガイが生業だともいえる。地獄に仏とはこのことだ。だが喜んでいるわけではない。健康に働けて健康に暮らせるのが一番いいに決まっているのだ。

低所得で気まで狂っているなんて踏んだり蹴ったりだよな?いきなり文体馴れ馴れしいですが。
ここから這い上がる術を私は知らない。ただ分かっているのは明日もパニックになるかならないかに怯え、退屈な労働をこなすことだけだ。

このエッセイ集を書いている過程で光が見出せることを切に願う。

10、なまこの記憶

小学1・2年の時の担任の教師は清水生子先生という当時20代の若手の教師で、やたらとまばたきの多い年若い女性であった。
「生子」と書いて「しょうこ」と読むのだが、当時の学友達は「なまこ」先生とかなり際どいスラングで呼んでいて、けしからん風潮であった。
私はこのような風潮に内々に苦言を呈し、決して「なまこ」先生と呼ぶようなことはなかった。

まあそれはよい。
この先生はちょっと変わり者で1・2年の学童のことを個人的に好きになってしまうような不思議な先生であった。
勘違いだと本人にとってたいへん失礼だが、どうやらこの先生は私のことを好きになったようだった。

2年生のバレンタインの日、帰りの会が終わり帰る段になって、みんなぞろぞろと教室から出て行く。その時、清水先生は私だけを呼び止めたのだ。何事かと思った。
みんな帰って行くのに私一人だけ教室に残されたのだ。
なにか悪事でも働いたかなぁと自分の1日を振り返っても思い当たる節がない。おかしいなぁ怖いなぁ、となんだか怖くなってしまった。
「山口君、待って!」と頬を赤らめながら帰ろうとする私の腕を引っ張った。しまいには私は泣いてしまった。
その頃には学友達は全員帰ってしまっていて、やっとこの時が来たと思った清水先生は私のことを放し自らの机の中からチョコレートの入った包みを持って来た。

そうなのだ。この先生は私にだけチョコレートを渡したかったのだ。だから私一人になるのを待っていたのだ。
当時の私は幼くこの一連の出来事を整理できなかった。
先生の赤らんだ顔と、やっと渡せたという安堵の表情だけ覚えている。
幼い記憶なので断片的にしかないのが残念である。

9、インドネシアのしみ

私は23歳の時、4つ下のみきちゃんという娘に恋をした。

当時、大学を卒業して何をするでもなくぶらぶらしていて、職もなく金もなく常日頃から友人に彼女が欲しい彼女が欲しいと気持ち悪く漏らす、そんな日々が続いていた。
山ちゃんはそんな私を見かねて、山ちゃんと山ちゃんの彼女と私とみきちゃんの4人で遊べる花火パーティーを開催してくれたのだ。4人で蓮沼の砂浜で花火をするのである。

真夏の夜の砂浜で4人の若人が集まり、持ち寄った花火でもって戯れるのである。
くそー!たまんねえな!
今そのような集団を見かけたら、ありったけの糞尿を撒き散らしてやりたい。できるだけ下品にかつ無様に徹底的にぶち壊してやりたい。
でもその頃の私は全身全霊で青春を謳歌した。頭の先からつま先まで女の子との花火を楽しんだ。

散々ぱら遊び尽くし一同皆帰る段になって、みきちゃんは私に近づき「なにか独特のオーラがありますね」と言ってきた。
ぬおー!恋の予感!?それとも早くも私のワキガに気づいてしまったか?
私は興奮を隠し、さりげなく携帯の番号を聞いた。

後日みきちゃんに電話して2人きりで映画を観に行く約束を取り付け、ほどなくして当日が来た。
私は緊張のあまり5時間しか眠れなかった。
嫌な予感がした。空調の良い映画館、薄暗くて座り心地の良い座席。寝ない訳が無い。
いくら意中の女の子と一緒だからってこれだけの好条件が揃ってしまえば寝てしまう。
というわけで私は2時間の上映中ほぼ全編みきちゃんを放ったらかして眠りに寝た。よだれまで垂らした、ちなみに。

その後、映画を観終わった私達は(私は観てないが)近くの喫茶店でコーヒーでも飲むことにした。
みきちゃんは半ば呆きれ、私の顔もまともに見てくれない。
私の着てたシャツにはよだれの跡がくっきり残り「このしみ、インドネシアみたいじゃない?」と冗談をかましたが無残にも空転した。

もちろんこの恋は実らなかった。その後のみきちゃんの様子は山ちゃんの耳には入って来てたであろうが、山ちゃんは上手いことシャットダウンし私を凹ませることはしなかった。

山口冬の時代はまだまだ続く。

8、転校生への洗礼

私は小学1年の時に佐倉から成田へと引越した。
佐倉での学童時代は1学期しかなく殆ど覚えていないのだが、引越し先での小学校での出来事は鮮明に覚えている。

まずびっくりしたのは新しい学友達の手の挙げ方である。
教師が問題を出して、答えられる人を指す前に、分かった児童達は皆一斉に手を挙げるのだがこの姿に仰天したのだ。
前の学校では手は床に垂直つまり真上に挙げていたのだが、新しい学校では手は床に170度つまり真ん前目がけて教師に突き出す形で挙げていたのである。
「はいっ!はいっ!はいっ!」と先生わたしを指名してとものすごい剣幕で名乗りを挙げ、私はなんだかとんでもない所に来てしまったなぁと途方に暮れた。

これに慣れるのは時間がいった。
ある日いつもと同じように担任の先生が問題を出し皆一斉に手を前に突き出した。はいっ!はいっ!はいっ!とまるで盛りのきた猿のようである。
私も答えが分かったので、はい、と皆とは対照的に真上に手を挙げた。これがまずかった。一風変わった手の挙げ方だったので注目を浴びたのだ。
みんな「この転校生、変なんです!」と視線が私と先生の間を行ったり来たり。先生が「なんだね、君は」と私を見てきたので私は不恰好にモジモジするしかなかった。

そんなモジモジ君には当てられず代わりに安永君が指名され答えた。
変な転校生扱いには1年生の私に酷で、やむやむ皆と同じく手を床に170度挙げる羽目になったのだが、おっ立てバナナだなぁと思い嫌な思いで一杯だった。

日本のしかも学校では異端は排除される。
私はあらゆることで異端だったので、あらゆる点で奇異の目で見られた。
まだMっ気が育ってなかったので学校は私にとって苦痛な場所でしかなかった
いや、もしかしたらMの気質はそんな環境だったから芽生えたのかもしれない。
そういうことにしておこう。

7、憧れのスピードスター

大学時代は金は無いが時間だけは大量にある言わば黄金時代だ。私はその4年間を学業に捧げず友人との享楽に費やした。

遊びは主に私と山ちゃんと平塚の3人で執り行われ場所は山ちゃんちと決まっていた。
3人の年頃の男達が集まって何をしていたかというと殆どがテレビゲームで、みんなコナミから出ているウィニングイレブンに熱中していた。サッカーゲームである。

山ちゃんはイタリア、平塚はオランダ、私はナイジェリアを使いこなし皆サッカーに詳しくなっていた。選手選手に思い入れを込め激しく争った。
特にナイジェリアにアモカチというスピードスターがいた。山ちゃんも平塚も一目置いていた選手である。この選手が曲者でボールが彼に渡るとその選手のスピードから2人は悲鳴を上げ私はしてやったりであった。

このアモカチが我々の間に一大ムーブメントを巻き起こした。なんでもかんでも語尾に「〜カチ」という接尾辞を付け始めたのである。
深夜、ゲームに一息ついてサイゼリヤに飯を食いに行くと出てきたハンバーグに「肉カチ」と言ったり、遊んでいる部屋に猫が入ってくると「猫カチ」と言ったり、とにかく「〜カチ」はバカ流行りした。いやバカ流行りというか我々はバカであった。

この一連のグルーヴを20年位経った今、近所で会った山ちゃんに漏らすと「あったよね、そういう文化が」と顔を仄かに赤らめて笑いながら返してきた。
かつてのくだらないブームも今となってはいい思い出に変わるのである。
皆さんも日々大切に生きましょう。

6、神崎青年の家でのこと

私が小学5年生のころ学校の行事で学年全員が神崎にある神崎青年の家に行った。
当時の私は行事というものが好きではなく、どこに出かけるのも嫌々で神崎青年の家もその一つであった。

青年の家に着くとそれぞれ班に分かれて行動するのだが、これが嫌でたまらなかった。どうも集団行動に馴染めず協調性がない子供だった。
しかし班で行動するしかなく、私のテンションは地べたにあるままだ。
そんなローテンションの最中オリエンテーリングなるイベントが始まろうとしていた。オリエンテーリングというのは、各班が青年の家半径5キロくらいの範囲にある複数のポイントを訪れ、そこのチェックサインを手に入れて帰ってくるという正気の沙汰とは思えない荒業である。しかも全編徒歩で。

教師という大人達は頭がおかしいのか、このようなクレイジーイベントをよく開催しては学童達を困惑させる。
しかもこのオリエンテーリングはボヤボヤとした6月に行われ暑い上に、私のような肥満児にとっては地獄絵図が展開された。恐怖の股擦れが訪れるのである。
暑いので小学生は半袖半ズボンになるので股の間がない肥満児は必然的に股擦れが発生する。オリエンテーリング全般が痛いのである。ヒリヒリヒリヒリする。
しかも暑い中敢行されるので喉はカラカラ口の中はネバネバ。
これを地獄と言わずしてなんと言えよう。

ヒリヒリ、カラカラ、ネバネバで全く楽しくなく、ひいひい言いながら各地のチェックポイントを巡り終え最終地点の青年の家に帰ってきた。
そこでは教師達が出迎えのため待っていてくれるのだが、労いの思いを込め児童1人1人にナイススティックという菓子パンとバナナオレが配られる。
知っている人は知っているだろうが、ナイススティックというのは中に甘ったるいクリームが注入されているしつこい感じの菓子パンなのだ。
バナナオレもどちらかというと爽やかな飲み物ではない。
ネバネバの口にこのような物を入れさせる真意が良く分からない。
教師達はやはりクレイジーだ。
彼らには千利休の侘び寂びを学んで欲しいと強く思ったものだ。

5、Yちゃんにまつわるトラウマ

私の女性遍歴は華やかなものではなく初めて付き合ったのは24歳のときであった。
相手は19歳の通信制の高校に通っている妖艶な女の子で、森高千里にうっすら似てるかわいい娘だった。Yちゃんとしておこう。

当時の私はまだクルマを運転していて、よくドライブなんかした。
印象に残っているのは蓮沼の海岸に行った時で車を降りて砂浜を歩いているとYちゃんは突然「バカヤローーー!!」と海原へ向けて叫び出した。
何事かと思ってYちゃんの顔を覗くと「てへへ、よだれ出ちゃった」などと全く可愛くなく、なんだか大変なことになったなと内心頭を抱えた。
帰りの車の中では「ねぇ、白味噌赤味噌どっちが好き?」ととんでもないことを聞いてきたので「え、どっちって・・・」と口ごもると「そうかぁ、私あんまりカフェオレ好きじゃないんだぁ」と支離滅裂な答えが返ってきた。
Yちゃんのクスリのパワーは確実に上がっていた。

そんなある日またまたYちゃんとドライブしているとどうも様子がおかしい。なんだか口数が少なく隠し事をしている風に見えた。直感でそう感じ「どうしたの?」と聞いてみると「前カレと会ってね・・・」とYちゃん「うん、それで?」ちょっと不安を感じ聞いた「Hしちゃった」。
がびーん。前カレとHしちゃったですと!?やーくそくはいらーないわー頭の中に椎名林檎が流れ始めた。はたされないことなどだいきらいなのー。林檎ちゃんの熱唱は止まらず私はたまらず車のギアを5速へと入れた。

車は猛スピードで成田バイパスを走り抜ける。
「怖いよ・・・」とYちゃん。そんなこと知るもんか。こっちはめちゃくちゃに頭が混乱している。Yちゃんの放ったメダパニ発言ですっかり混乱し、私は今にも前を走る軽に突撃したくてたまらなかった。

その後の事は書けない。脳が思い出すことを拒絶している。「ああ、山口に酷いことがあったんだな」と想像してもらいたい。なにしろ思い出したくない。
申し訳ないのう^^ ;