19、ブイブイの同窓会

今年の8月、中学時代の同窓会があるそうだ。
私は参加する。友人も参加する。
楽しみである。

何が楽しみかっていうと中学当時ブイブイいわせてた1軍の面々がどれほど落ちぶれているか、またはどれだけレベルアップしているか、を見届けるのが楽しみなのである。
我ながら趣味が悪い。どれほど落ちぶれているか見るのが楽しみなんてとてつもなく下衆な考えではないか。1日の肛門の匂いを嗅ぐのが1番の楽しみっていうほどの下衆さではなかろうか。

少し読者を引かせたところで本題に入ろう。
私が生まれた昭和50年代の中学時代はヤンキーが天下に覇を唱えていた。いわゆる不良がカッコヨカッタ時代なのである。そんなもん今の時代めちゃくちゃカッコ悪い。彼らがどう時代に適応してきたか、見定めたい。
ヤンキーの道の行く末はヤクザである。ここでもし彼らがヤクザになってたら私の楽しみは破綻する。ヤクザになってたら引く。怖いだろう、同窓会にヤクザなんて。しかしあれから30年、私は同じ町に住んでるが誰一人としてヤクザになったものなんていないのである。安心である。

あと楽しみと言ったら当時モテてた可愛かった女の子の劣化具合である。いやあ、これはおじさん趣味が悪いなあ。一歩間違えばセクシャルハラスメントである。劣化具合って。いやでも46のおばさんになってるのでどう考えたって劣化してるのである。
当時言えなかった、あの日あの時あの場所で、のあの日って生理の日だよね?っていう愚問も言えそうな気がする。言ったら犯罪である。

以上のような期待を胸に参戦してくる。
結果は当エッセイ集で発表するつもりだ。
お楽しみに。

18、コーヒー考

私の妹は精神科で薬剤師をしているのだが、精神病の入院患者はしょっちゅうコーヒーを飲むのだそうだ。
これは経験者として分かる。
向精神薬のたいていは飲むと眠くなったりだるくなったりするので、頭をサッパリさせるためにコーヒーを飲むのである。
経験者にしか分からないと思うが向精神薬で発生した眠気、だるさをコーヒーで吹っ飛ばす快感はたまらないのだ。脱法ドラッグはやった事がないので想像でしか分からぬが、コーヒーを多量に飲んだ時のバキバキの覚醒感は覚醒剤をキメた時のそれと似ているのではないだろうか。あのだるさが吹っ飛ぶ感覚はクセになる。

しかしそんなコーヒーにも欠点が何個かある。
まずあまりに飲むとうつになる。この症状を精神科医に訴えた時に「まあ、覚醒するからねえ」と述べていた。しかし、現在の私の主治医はこれを全否定する。コーヒー飲んでも目が覚めるだけで何にもならないと言うのだ。いやいやあなたの目の前にコーヒー飲んでうつになってる患者、私がいるじゃない。それでも全否定するのである。私の勝手な思い込みだと主張するのだ。ここで対決するのも不毛だと思って反論しなかったが、乱暴な主張だなあとしみじみ感じたものだ。
田村正和に似たダンディな主治医だからかなあと1人で妄想してたが、ダンディズムとボッキズムは関係ない。いきなりボッキズムなんて知らない単語が出てきて恐縮だが、ボッキズムとはコーヒーを飲んだ時の覚醒感を私が勝手に名付けているだけだ。

コーヒーについてはまだまだ書きたいことがあるが今日はここでやめておく。野島君に書きたいって書こうとしたら、野島クンニ書きたいって出た。私のパソコンがボッキズムの体現者なのか。こんな馬鹿馬鹿しいことはどうでもいい。今日はここまで。さようなら。

17、バキバキBP

私はバキバキの便秘である。
食物繊維も摂ってるし、1日30分はウォーキングしている。
しかし出てくれないのである。

多分というか絶対、持病のうつ病が原因だ。
もう30年間うつ病なので30年間便秘なのである。
ただでさえ元気が出ない病気なんだから、うんこぐらいヤァと気軽に出てもいいではないか。呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーんと大量に出てもこの際良しとしよう。そうこれじゃあ困るよというくらい出てもいいのである。

そんな私と正反対なのが私の母だ。彼女はうんこがしたくて朝目覚めるという非常に羨ましい体質なのである。どういう境地なのか全く想像できない。そこら辺にいる肥満の老婆なのだが、不覚にも彼女の肛門と私の肛門を交換したい。そのくらいガンガンに出るのだ。

こんな感じで便秘症なもんだから次の日会社が休みの日の時は前日に大量に下剤を飲む。普通の人はその量に引くであろう。うんこだけじゃなく腸も下手すりゃ胃も出ちゃうじゃないの!?ってくらい飲む。知識が無い人にはさっぱりわからないだろうが、1回プルゼニド14錠ラキソベロン100滴スルーラック8錠、びっくり仰天の量なのだ。

もういい加減にしてくれないか。自分の肛門が憎たらしい。エッセイ1本を便秘に割くなんて我ながら馬鹿げている。しかし私の闘争は続くのだ。

16、不良ボケ

父方の祖父が病に臥したのは今から20年くらい前だろうか。祖父が確か76歳の頃だったと思う。

本格的に病床に就くようになると本格的にボケ始めた。下の世話も必要になったため母が介護に駆り出される日も多くなっていった。
祖父は長男宅で介護されており、次男の嫁である私の母も介護に加わったわけである。

祖父のボケは全く迷惑な不良ボケであった。
介護している長男の嫁、次男の嫁の両者の尻を「よーし!」と威勢よく声を出しながらペロリと触ったりした。年増の女の尻を触って何が嬉しいのか分からぬが、このような凶行は毎日のように重ねられていった。

また尿瓶(しびん)に尿を足していたのだが、とある日には尿瓶と形状が似ている急須にしょんべんを施した。その急須は祖父用だったため被害を受けるのは祖父だけだったのだが、ボケの世界は奥深く、急須に用を足した後の祖父はシタリ顔で「よーし!」とまたもや威勢よく啖呵を切っていた。

そんな祖父も病状がおおいに悪くなり病院に担ぎ込まれるというXデーまもなくという日がいよいよ来た。
いよいよだったので孫である私も駆け付けた。
その日は急に内臓近辺が痛くて運ばれたので看護婦に「山口さん!山口さん!どこ痛いのっ!?」と問われたのだが祖父ときたら「こうもん、肛門」とボケてみせた。これには私は笑いが堪え切れず病室をすぐさま出てケラケラと笑ってしまった。

その後どのように祖父が死を迎えたか、非常に失礼だが忘れてしまった。
しかし祖父は最後の最後まで笑いを与えることを忘れなかった。

私もかくありたい。

15、VS焼肉食い放題

高校時代、男友達7、8人で成田にある焼肉食い放題の店すたみな太郎に行ったことがある。

高校男子はみな食欲旺盛でそれが7、8人大挙して押し寄せるなんて店側としては商売上がったりだったと思う。しかし我々は勢いだけで生きてたので、そんなのお構いなし売られた喧嘩は全て買います意気揚々とすたみな太郎に乗り込んだのである。

並べられてるものは片っ端から食ってやろうぜと鼻息荒く、すたみな太郎側は迷惑千万、戦いの火蓋は一方的に切って落とされた。

カルビ、ロース、ハラミお腹をすかせた高校生達は激しく食い散らかした。わーわーぎゃーぎゃーと騒ぎながら、一心不乱に焼いては食う焼いては食うを繰り返した。徐々に我々の腹は満たされていった。

すたみな太郎には肉だけでなく寿司、たこ焼き、アイス、プリン、ジュースなども置いてある。それらも食べ放題だ。もちろん我々も食べた。
腹が満たされていくと我々は置いてある色んな食材でふざけ始める。

誰かの白米の中に誰かが焼いてない生肉をねじり込んだり、誰かのプリンに誰かがたこ焼きをデコレーションしたりとやりたい放題であった。
しまいには誰かのジュースの中に誰かが寿司をぶち込むという荒業をしでかし入れられた当人の「ジューすし、じゃねえかよ!」の虚しいツッコミに我々はゲラゲラ笑った。

肉にも笑いにも飢えてた古き良き高校時代の話である。

14、柔道部物語

中学時代私は柔道部に所属していた。

柔道というとなにやら汗臭く湿っていて、とにかく女の子にモテないというイメージを持つ方も多くいるだろう。
そうである。とにかく女の子にモテない。いやあ、参ったなあという感じである。

放課後部活の時間に柔道場にいると「くさ〜い」と言いながら通り過ぎる女子も少なくなかった。
そんなやつ強姦してしまえっ!と思う諸兄もいるだろう。まあ待て。確かに柔道には寝技というものがある。それを駆使すれば強姦なぞ容易いだろと言いたい気持ちも分かる。しかしそれは極論である。サイコパスの考えである。

柔道部には男にも人気がなかった。部員が少なかったのである。私も含めて3人しかいなかった。これでは団体戦に出れない。
仕方なく個人戦だけに出場するのだが、みんな一、二回戦で敗退する。大会の帰り道に顧問の先生が「でもお前ら頑張ったよ」と励ましてくれて雪見だいふくなどを奢ってくれたりする。
この先生のためにも是非とも勝ちたかったが、帰り道で「ホモじゃなくて」とか保毛尾田保毛男の真似して敗戦を反省してないのである。

汗臭い上に保毛尾田保毛男の真似とか地獄絵図だが、これじゃ女の子にモテないのも当然である。しかし私の中ではいい青春の思い出である。

13、赤兎馬個別指導塾

私は大学時代、自宅の一部屋を教室にしたマンツーマンの個別指導塾を開いていた。
経営者も従業員も私一人のお気楽なアルバイトであった。

家庭教師を経験したことのある人は分かると思うが、教える事の容易さは生徒の学力や理解力にかなり左右される。
簡単に言うと生徒が頭が良ければ教えるのが楽だし、逆に生徒の頭が残念だと教えるのが困難になる。

その生徒の中に中島君という男子中学生がいた。
中島君はあまり頭が良い方ではなかった。
それはともかくこの子は勉学よりも雑談を好んだ。
私は親御さんから時給2000円もらっていたので、雑談に時間を割くことは申し訳ないと思っていたのだ。
しかし中島君から仕掛けてくる雑談を無碍にするのも憚られるので、若干はその話に乗ってあげてたりした。

当時の中島君は三国志にはまっていて、ことあるごとに我らを三国志の世界に導いた。
やれ呂布張飛赤兎馬だと教室は戦場と化した。
時に中島君が劉備で私は曹操となり数度私は首を刎ねられた。

首から上がない状態で授業をしなければならず、不覚にも三単現のSを教えてる最中に放屁などをした。
中島君は笑い、私も笑った。
このように中島君との授業は楽しかった。

毎回馬に乗り荒野を駆けずり廻った挙句、中島君は見事第一志望の高校の推薦合格書を手に入れた。
中島君も私との三国志授業を気に入ってくれていたらしく最後の授業の時別れを惜しんでくれた。
私は中島君に幸あれとばかりに背中をポンと軽くたたき、高校に行っても学問に励むのだよと送り出した。
劉備曹操の元を笑顔で去っていった。