5、憧れのスピードスター

大学時代は金は無いが時間だけは大量にある言わば黄金時代だ。私はその4年間を学業に捧げず友人との享楽に費やした。

遊びは主に私と山ちゃんと平塚の3人で執り行われ場所は山ちゃんちと決まっていた。
3人の年頃の男達が集まって何をしていたかというと殆どがテレビゲームで、みんなコナミから出ているウィニングイレブンに熱中していた。サッカーゲームである。

山ちゃんはイタリア、平塚はオランダ、私はナイジェリアを使いこなし皆サッカーに詳しくなっていた。選手選手に思い入れを込め激しく争った。
特にナイジェリアにアモカチというスピードスターがいた。山ちゃんも平塚も一目置いていた選手である。この選手が曲者でボールが彼に渡るとその選手のスピードから2人は悲鳴を上げ私はしてやったりであった。

このアモカチが我々の間に一大ムーブメントを巻き起こした。なんでもかんでも語尾に「〜カチ」という接尾辞を付け始めたのである。
深夜、ゲームに一息ついてサイゼリヤに飯を食いに行くと出てきたハンバーグに「肉カチ」と言ったり、遊んでいる部屋に猫が入ってくると「猫カチ」と言ったり、とにかく「〜カチ」はバカ流行りした。いやバカ流行りというか我々はバカであった。

この一連のグルーヴを20年位経った今、近所で会った山ちゃんに漏らすと「あったよね、そういう文化が」と顔を仄かに赤らめて笑いながら返してきた。
かつてのくだらないブームも今となってはいい思い出に変わるのである。
皆さんも日々大切に生きましょう。

4、変な劇作家

小学校の卒業式直前に卒業生を送る会というものが催された。

そこで私達6年1組は劇を披露することになり、脚本は私が担当する段取りが組まれた。
担任の渡辺先生からの直々の依頼であったのだが、何故に私が選ばれたのか分からない。しかし私は当時、文章を書くということに幾分か興味があり作文のテストなどでも良い成績を残していたことが原因かと考えられる。

私は奮起した。
演劇を書くなど初めてであったが、自分が作り出したものを人が演じるということに非常にワクワクし具現化することに胸が踊った。
私は一心不乱に書いた。

出来上がったものは桃太郎が雑多な英雄達を引き連れて鬼退治をするというもので、道中で変なおじさんなどとも巡り会い月曜日はハンジャラケ体操も踊ったりと奇想天外なものであった。
私は手応えを感じ、卒業生を送る会も無事終わった。

その後ハタチの時、卒業時に埋めたタイムカプセルを掘り起こし当時の思い出を酒宴の席で語り合うという同窓会が行われたのだが、そこで衝撃の事実が発覚する。
なんと私の作った劇が大不評だったのだ。

元学友から「あの劇、誰が作ったの?全然面白くなかった」と直接に攻撃された。
私は「知らねーよ(苦笑)」とその場をやり過ごし、一人心の中で泣いた。
確かに当時は誰作かは明かされてはおらず、元学友の訴えは致し方ない。しかし、変なおじさんに手応えを感じていた私は大きく傷つき、そうです私が変な劇を作ったおじさんです、なんて冗談も言えず静かに深くうなだれた。

今自省して思い起こしてみても、あの当時のあの劇はただ単に変なおじさんやハンジャラケ体操をこの手で操りたいという「だいじょぶだぁ」にインスパイアされたものに過ぎないものであった。私が志村けんを無駄にリスペクトした結果生まれた産物であった。何ゆえ桃太郎と志村がミクスチュアされるのか謎である。まあ小学生の考えることは大人がいくら考えたって分かるわけがない。分かることは小6の私は志村けんに感化され、周りの人間をも志村テイストにしたかった人間であったということだ。

最後にだっふんだとだけ言っておこう。

3、塾講師のアルバイト試験

塾講師のアルバイトは大学生がするもので、いい大人が年甲斐もなくやるものではないと思う。

それなのに私は31の時、成田にあるとある個別塾の講師募集の採用チラシに飛びついてしまった。

当時やることもなく家の中でぶらぶらしていた私にとって塾講師のアルバイトは魅力的だったのだ。
そもそも家の外で働くこと自体がニートの私には刺激的だし、いい加減ニートはどうかと思っている最中ということもあった。
とりあえず応募の広告に申し込みの電話を入れた。
間の抜けたおっさんの声だ。
「あなた学生さん?」
「いいえ31の社会人です」
「あ、そう。では面接とテストがあるので今月の23日に筆記用具と履歴書持って本社に来てください」
まあ間の抜けた声でしっかりしたことよく言うよと思いながら電話を切った。
テストがあるということなので書店に赴き中学生向けの問題集を購入して早速勉強した。
だいぶブランクがあったので大変だったがほうほうの体で切り抜け面接試験当日を迎えた。

試験会場の本社に行くと15人くらいの若人の集団が席にちょこんと座っていて、見ると皆大学生くらいでいい歳したのは私だけであった。
こっぱずかしかった。
ちょうど私の席から見て桂馬の位置にいる大学生と隣の大学生がニヤニヤしながらなんか話している。
ああ俺のこと言ってるんだな。俺がかっこいいからひがんでいるんだなと統合失調症特有の被害妄想に襲われながら筆記用具の用意をした。
そんな病的な一面を垣間見せているうちに試験官が現れ、色々と説明した後試験が行われ始めた。私はなんだかうんこがしたくなってしまった。

すいませんうんこしてきていいですか?とも言えずフガフガしていたのだが、ついにうんこはピークに達し肛門の外に迫る勢いとなった。事ここに至ってはどうしようもなく私は腹を決め(うんこだけに)、こんな小ボケはどうでもよく試験官に排便の意思を暗に告げてそそくさとトイレへと駆け込んだ。

このことは誰に言っても信じてもらえないのだがその時の脱糞の快感は今までに体験したこともない素晴らしいものであった。桂馬の位置にいたあの学生にも伝えたい程であった。
そんな快感が助けてくれたのか分からないが、席に戻って解き直したテストは完璧な出来栄えで受かる事を確信し、その後の個別面接もそつなくこなし悠々と自宅への帰路につくことになる。

後日、採用不採用の通知の電話が来た。
結果不採用。
なんでやねーん。やっぱり歳のせい?
あのうんこを思い出した。それはまさに一本糞と呼ぶにふさわしい代物であった。
試合には負けたけど勝負には勝ったような気もする。

2、高崎へ珍道中

私が大学生の頃、高崎に住むおじちゃんの家に遊びに行ったことがある。私と妹と従姉妹と婆さんとその婆さんの妹の5人で。

地元から上野までは鈍行と快速を乗り継ぎ、上野から高崎までは新幹線で行く手はずになっていた。
新幹線などは高校の修学旅行以来で否が応でも胸が高まった。皆同じく興奮しているようだ。
とっくの昔にあがったであろう婆さんと婆さんの妹も期待で胸が熱くなっているのか目を輝かせていて、無駄に新幹線の車内で茶や菓子などを購入しては飲食していた。

皆独自に楽しんでいる最中、汽車は無事高崎に到着した。
新幹線から降りる際には改札口で普通の乗車券と新幹線の切符を同時に挿入しなければいけないのだが、婆さんの妹は間違えて普通の乗車券だけを入れ新幹線用のは忘れてしまった。
当然の如く改札口の小さな扉は閉まって、婆さんの妹は「ひいっ!」と驚きその場で立ち往生した。すかさず従姉妹が「2枚同時に入れるんだよ」と助言し、婆さんの妹は渡りに船とばかりに2枚同時にいれ事無きをえた。

この驚きようが胸を打ったのか分からないが、婆さんは自らの妹をここぞとばかりにからかった。「いやあ、おせ(婆さんの妹の名前)のびっくりかたったらなかったね。ガチャン、ひょーびっくり、ひょーびっくり、とこういうわけだよ」と形態模写し大袈裟にふざけてみせた。婆さんの妹は「しょうがないじゃないか。知らなかったんだから。まるで警察に捕まったようだったよ」と先の行為の弁解をしたのだが婆さんは、いいえいくらでもからかってあげますよと「ガチャン。そーれびっくり、そーれびっくり!」と追撃の手を緩めなかった。

婆さんの奇行で無意味に険悪なムードに包まれながらも我々は無事、高崎のおじちゃんの家に到着した。
高崎のおじちゃんは我々の来着を大いに喜び、豪勢な寿司をもって歓待してくれた。

寿司に舌鼓をうちながら皆よまやまばなしに花を咲かせている最中、おじちゃんは年若い私に興味を示し「健一君(私の名前)は大学で何を勉強しているのかね?」と質問してきた。私は「経営学です」と答えると「ほー経営学ねぇ。経営学かぁ」と私はおじちゃんのハートに火をつけてしまった。おじちゃんは「経営学とはまた立派な学問をやっているねぇ。授業はさぞ楽しいだろう」などと発言した。いえいえ毎回ポッキー食べながら講義は聴いていますなどと応えられるはずもなく「はい。まあボチボチです」とお茶を濁した。

後日聞いたところによるとおじちゃんは松下幸之助の直弟子だったらしく、松下電器の関東支部の社長だったというのだ。そんな事知ってればツテでいい就職先が見つかってたかもしれない。後悔してももう遅い。その後20代私は冬の時代を迎えることになる。
そもそもポッキー食べながら勉強してる時点で周りの人間とは大きな差ができてしまっていたのだ。

1、Yちゃんにまつわるトラウマ

私の女性遍歴は華やかなものではなく初めて付き合ったのは24歳のときであった。
相手は19歳の通信制の高校に通っている妖艶な女の子で、森高千里にうっすら似てるかわいい娘だった。Yちゃんとしておこう。

当時の私はまだクルマを運転していて、よくドライブなんかした。
印象に残っているのは蓮沼の海岸に行った時で車を降りて砂浜を歩いているとYちゃんは突然「バカヤローーー!!」と海原へ向けて叫び出した。
何事かと思ってYちゃんの顔を覗くと「てへへ、よだれ出ちゃった」などと全く可愛くなく、なんだか大変なことになったなと内心頭を抱えた。
帰りの車の中では「ねぇ、白味噌赤味噌どっちが好き?」ととんでもないことを聞いてきたので「え、どっちって・・・」と口ごもると「そうかぁ、私あんまりカフェオレ好きじゃないんだぁ」と支離滅裂な答えが返ってきた。
Yちゃんのクスリのパワーは確実に上がっていた。

そんなある日またまたYちゃんとドライブしているとどうも様子がおかしい。なんだか口数が少なく隠し事をしている風に見えた。直感でそう感じ「どうしたの?」と聞いてみると「前カレと会ってね・・・」とYちゃん「うん、それで?」ちょっと不安を感じ聞いた「Hしちゃった」。
がびーん。前カレとHしちゃったですと!?やーくそくはいらーないわー頭の中に椎名林檎が流れ始めた。はたされないことなどだいきらいなのー。林檎ちゃんの熱唱は止まらず私はたまらず車のギアを5速へと入れた。

車は猛スピードで成田バイパスを走り抜ける。
「怖いよ・・・」とYちゃん。そんなこと知るもんか。こっちはめちゃくちゃに頭が混乱している。Yちゃんの放ったメダパニ発言ですっかり混乱し、私は今にも前を走る軽に突撃したくてたまらなかった。

その後の事は書けない。脳が思い出すことを拒絶している。「ああ、山口に酷いことがあったんだな」と想像してもらいたい。