12、とにかく明るい統合失調症

私には大親友と呼べる友人がいる。

彼も私と同じく統合失調症を患ってて、私と同じくちんぽこを携えている。

ひろゆきとよぼう。ひろゆきとは20年の付き合いだ。

最初は平凡なやつだなあとタカをくくっていたが「タリーズコーヒーの”タリー”は甘ったりーの”たりー”じゃねえから」発言からメキメキと頭角を現し、今では3㎝の屹立した肉棒にメッシのタトゥを施して挙句の果てにはドラのペイの海底あがりで我々を爆笑の渦に巻き込んだ一寸の狂いもない男なのである。

ひろゆきに関しては、私程度のエッセイでは語り尽くせない。とにかく器がでかい。私が毎日装着しているプロクリアワンデーの使い捨てソフトコンタクトレンズくらいの大きさと言えば分かるだろう。ここらへんで私はうんこをしてくる。

えー、おっほん!申し訳ない。痰が絡んでしまった。あと、ひろゆきは麻衣子という女を愛してる。しかしながら全く相手にされていない。麻衣子はメンヘラの相手を生業とする国家資格職に就いていて、ひろゆきはその相手側の人間であった。そういう意味では相手にされていたが所詮麻衣子にとっては飯のタネである。

そんな悲しいフランケンシュタインひろゆきは今日も我々をいかにして笑わそうかと虎視眈々と機を窺っている。油断してはいけないのだ!敵は強大なリーサルウエポンであることを忘れてはいけない。

もう泣きそうだから寝ちまえ!

11、しょんべんライダー

電車の中で尿意を催すことほど厄介なものはない。
催してしまったら一種の修行だと思って諦めてしまおう。耐尿道の修行だ。
だって我慢するしかないではないか。

友人達と一緒に乗っていたとしても涼しい顔して尿意を我慢するのだ。そんなことはどこ吹く風、皆と一緒に談笑し、どのような話題であっても何ということはなく会話をするのである。
時には「いかにして尿意を我慢するか」という逃げ場のない話題に直面しても笑顔を絶やさず歓談するしかない。この場合、単に尿意を我慢する能力が向上するだけでなく、いかにして自分が避けたい話題であっても笑顔を絶やさず議論するかという胆力も鍛えられる。

そうは言いながらこの修行道は厳しいものである。
私は以前成田線内で猛烈な尿意を体験し我慢の末、力尽きガラガラの車内で放尿してしまった苦い過去がある。
一人サラリーマンと思しき紳士が座席に座っていたが、つーと流れてくる私の尿に気付かず必死にノートパソコンと格闘していた。
要するに私の完全勝利である。

諸兄においてはこのようなことの無きよう常日頃から尿意をうまくコントロールして生活してほしい。

10、神崎青年の家でのこと

私が小学5年生のころ学校の行事で学年全員が神崎にある神崎青年の家に行った。
当時の私は行事というものが好きではなく、どこに出かけるのも嫌々で神崎青年の家もその一つであった。

青年の家に着くとそれぞれ班に分かれて行動するのだが、これが嫌でたまらなかった。どうも集団行動に馴染めず協調性がない子供だった。
しかし班で行動するしかなく、私のテンションは地べたにあるままだ。
そんなローテンションの最中オリエンテーリングなるイベントが始まろうとしていた。オリエンテーリングというのは、各班が青年の家半径5キロくらいの範囲にある複数のポイントを訪れ、そこのチェックサインを手に入れて帰ってくるという正気の沙汰とは思えない荒業である。しかも全編徒歩で。

教師という大人達は頭がおかしいのか、このようなクレイジーイベントをよく開催しては学童達を困惑させる。
しかもこのオリエンテーリングはボヤボヤとした6月に行われ暑い上に、私のような肥満児にとっては地獄絵図が展開された。恐怖の股擦れが訪れるのである。
暑いので小学生は半袖半ズボンになるので股の間がない肥満児は必然的に股擦れが発生する。オリエンテーリング全般が痛いのである。ヒリヒリヒリヒリする。
しかも暑い中敢行されるので喉はカラカラ口の中はネバネバ。
これを地獄と言わずしてなんと言えよう。

ヒリヒリ、カラカラ、ネバネバで全く楽しくなく、ひいひい言いながら各地のチェックポイントを巡り終え最終地点の青年の家に帰ってきた。
そこでは教師達が出迎えのため待っていてくれるのだが、労いの思いを込め児童1人1人にナイススティックという菓子パンとバナナオレが配られる。
知っている人は知っているだろうが、ナイススティックというのは中に甘ったるいクリームが注入されているしつこい感じの菓子パンなのだ。
バナナオレもどちらかというと爽やかな飲み物ではない。
ネバネバの口にこのような物を入れさせる真意が良く分からない。
教師達はやはりクレイジーだ。
彼らには千利休の侘び寂びを学んで欲しいと強く思ったものだ。

9、やがて哀しきテキストサイト

私が20代の頃、ネットにはテキストサイトなるものが全盛を誇っていた。
あのブームはなんだったのだろうと今にしては思うが、当時は己の文章力、ライティングスキルの発揮場所と言ったら自らが運営するホームページ上での日記というステージがメインであった。

そこではいかにして文章で人を笑かすか、に主眼が置かれみな躍起になって日々感じたこと、起きたことなどを面白おかしく加工して日記上にまろび出していた。
私はそのような風潮に警鐘を発し自らの陰茎などをノーテキストで公開していた。
むろんそのようなことをしていれば今ではとんでもない性の悦びおじさんになってるところだが、訂正しよう、私はそういったブームには乗っかることなくただ単なる傍観者であった。

しかし私は文章で人を楽しませるという行為にすっかり魅了され、必死にそういったテキストサイトを巡回していた。
この人はどういった日本語で人を笑かすのだろう、どういった語彙で戦っていくのであろうか、そのようなことを目から吸収し自らが運営する小汚いホームページの日記に落とし込んでいった。

テキストサイトのライター達は神の領域で、私などはそこよりも数十段下ったところから見物していた。
いまにして思えば興味があるなら参戦すべきだったのかもしれないが、彼らのテキストは私の記事に比べればまさに職人の逸品であった。私なぞは芋であった。タッキー&翼で言う所の翼のうんこの中のトウモロコシの粒程度のものであった。

じゃあ今はどうなの?と問われればまだ自信がない。
書いても書いてもゲラゲラ笑うものなど誕生する気配すらない。
美輪明宏なら私の文章に小便をかけるであろう。高笑いしながら小便をかけるに違いない。
それはそうと「アナスタシア」かなりギリギリのタイトルだよな。

8、なまこの記憶

小学1・2年の時の担任の教師は清水生子先生という当時20代の若手の教師で、やたらとまばたきの多い年若い女性であった。
「生子」と書いて「しょうこ」と読むのだが、当時の学友達は「なまこ」先生とかなり際どいスラングで呼んでいて、けしからん風潮であった。
私はこのような風潮に内々に苦言を呈し、決して「なまこ」先生と呼ぶようなことはなかった。

まあそれはよい。
この先生はちょっと変わり者で1・2年の学童のことを個人的に好きになってしまうような不思議な先生であった。
勘違いだと本人にとってたいへん失礼だが、どうやらこの先生は私のことを好きになったようだった。

2年生のバレンタインの日、帰りの会が終わり帰る段になって、みんなぞろぞろと教室から出て行く。その時、清水先生は私だけを呼び止めたのだ。何事かと思った。
みんな帰って行くのに私一人だけ教室に残されたのだ。
なにか悪事でも働いたかなぁと自分の1日を振り返っても思い当たる節がない。おかしいなぁ怖いなぁ、となんだか怖くなってしまった。
「山口君、待って!」と頬を赤らめながら帰ろうとする私の腕を引っ張った。しまいには私は泣いてしまった。
その頃には学友達は全員帰ってしまっていて、やっとこの時が来たと思った清水先生は私のことを放し自らの机の中からチョコレートの入った包みを持って来た。

そうなのだ。この先生は私にだけチョコレートを渡したかったのだ。だから私一人になるのを待っていたのだ。
当時の私は幼くこの一連の出来事を整理できなかった。
先生の赤らんだ顔と、やっと渡せたという安堵の表情だけ覚えている。
幼い記憶なので断片的にしかないのが残念である。

7、転校生への洗礼

私は小学1年の時に佐倉から安食へと引越した。
佐倉での学童時代は1学期しかなく殆ど覚えていないのだが、引越し先での小学校での出来事は鮮明に覚えている。

まずびっくりしたのは新しい学友達の手の挙げ方である。
教師が問題を出して、答えられる人を指す前に、分かった児童達は皆一斉に手を挙げるのだがこの姿に仰天したのだ。
前の学校では手は床に垂直つまり真上に挙げていたのだが、新しい学校では手は床に170度つまり真ん前目がけて教師に突き出す形で挙げていたのである。
「はいっ!はいっ!はいっ!」と先生わたしを指名してとものすごい剣幕で名乗りを挙げ、私はなんだかとんでもない所に来てしまったなぁと途方に暮れた。

これに慣れるのは時間がいった。
ある日いつもと同じように担任の先生が問題を出し皆一斉に手を前に突き出した。はいっ!はいっ!はいっ!とまるで盛りのきた猿のようである。
私も答えが分かったので、はい、と皆とは対照的に真上に手を挙げた。これがまずかった。一風変わった手の挙げ方だったので注目を浴びたのだ。
みんな「この転校生、変なんです!」と視線が私と先生の間を行ったり来たり。先生が「なんだね、君は」と私を見てきたので私は「そうです私が変な転校生です」と言いたいのをグッとこらえざるを得なかった。ただモジモジしただけだった。

そんなモジモジ君には当てられず代わりに安永君が指名され答えた。
変な転校生扱いには1年生の私に酷で、やむやむ皆と同じく手を床に170度挙げる羽目になったのだが、おっ立てバナナだなぁと思い嫌な思いで一杯だった。

日本のしかも学校では異端は排除される。
私はあらゆることで異端だったので、あらゆる点で奇異の目で見られた。
まだMっ気が育ってなかったので学校は私にとって苦痛な場所でしかなかった
いや、もしかしたらMの気質はそんな環境だったから芽生えたのかもしれない。
そういうことにしておこう。

6、筋ドルの怒り

小学3年の頃だと思う。
私と悪友達は担任の佐藤先生に引っ叩かれた。

確か4人で掃除の時間なのに教室で野球をやっていた。
ボールは新聞紙を丸めガムテープで固めたもので、バットはホウキを使用していた。そんな急ごしらえの道具で遊戯に没頭していたのだ。
真面目に掃除をしている女子からは顰蹙を買い、我々は「うるせえ、馬のけつ!」と意味不明な罵詈雑言で応酬した。
馬のけつ達は冷ややかな目を我々に向けながら掃除をしていて、野球に興じている児童には目の上のたんこぶであった。

私の打球が二遊間を抜けてタイムリーになり、興奮しているところに佐藤先生は教室に入って来た。ちょうどその時、私は女子達に「イエイ!このヤロー!」と威勢よく啖呵を切った途端のことであった。

「お前ら何やってるんだー!」と佐藤先生は顔面を真っ赤にし青筋を立てて怒り狂った。
意表を突かれた筋ドルの来襲に我々は全身凍りついてしまい、野球どころの騒ぎではない。
「お前ら一列に並べ!」佐藤先生の怒りは収まらなかった。我々を教室の端に横一列に並べると、順にビンタをし始めた。
パチン、パチンと勢いよく音が鳴る。私も覚悟を決め潔く引っ叩かれた。痛い。
ただ梨木だけ一人これを良しとせず、両手で両頬をガードしビンタから逃れようとした。
佐藤先生はその男らしくなさが頭にきたのか梨木の両手を無理やり下ろし、右頰と左頬の両方を引っ叩いた。我々の他のメンバーは片方だけだったのに。

我々はまだ小3だったから泣いてしまった。小泣きではあったが。だがしかし驚いたことに梨木だけ何食わぬ顔で全然泣いてない。両頬を引っ叩かれた梨木がだ。
このことは安食小七不思議の一つに数えられる。勝手に私が数えてるだけだ。